坂本さんのことを書こうとすると、いろんな人の言葉が次から次へとリエゾンしてくる。
たとえば、三善晃が取材で語ってくれた、こんな言葉。
「ひとつの曲に没頭すると、その曲に取り殺されそうな気持ちになってくることがある。死ぬか生きるか、そういう状態で書き続け、五線譜に最後の二重線を引いた瞬間、作品は僕をやっつけて飛び立ってゆく」(2008年10月14日、朝日新聞夕刊記事「三善晃の歩みを奏でる」)
たとえば、吉増剛造がジョナス・メカスのことを想いながら綴った、こんな言葉。
「詩作とか芸術行為というのは、「わたし」が主役ではないのです」(講談社現代新書『詩とは何か』)
芸術は、誰にも所有されない。それでいて、誰もが自由に、自分のものにできる。
坂本さんが生涯かけて求めた「自由」の本質は、この一見矛盾するような真理の中にあったのかもしれないと、あらためて思う。
「芸術は長く、人生は短い」。この言葉を、坂本さんはこの世界の人々に贈って旅立った。そうして坂本さんの音楽は、かりそめの肉体を離れ、未来の聴衆と出会うための新たな「生」を得た。
新聞記者としていろんな芸術ジャンルの取材をしてきたが、おおげさではなく、かなり多くの場所に、坂本さんが足を踏み入れた痕跡を見る。全く出会うはずのない人たちが、坂本さんを軸に連なっているとしか思えなくなってくるほどに。少なくともこの世界に、坂本さんにとっての「他人」はいなかったに違いない。
原発や自然破壊に「NO」を突きつけるだけではなく、自ら積極的に行動せずにいられなかった背景には、単なる優しさだけではなく、自然のおかげで自らの歌を歌えている、自分自身こそが「当事者」なのだという切実な思いもあったのだろう。坂本さんが愛したピアノは、言うまでもなく木でできている。水が、大気が、野性の動物たちが、自身の内なる思いを世界に放つ「声」の土壌を育んでくれた。そうした連想、あるいは循環のイメージも、おそらく坂本さんの無意識に少なからずあったのではないか。
世界の本質を直感でつかむ人は、自身の無意識に対する極めて謙虚で繊細なアンテナを持っているものだ。タルコフスキーや武満徹といった人が、その類いといえるだろう。言葉以前の世界で、他者とつながることができる。そうした人たちに、坂本さんは強く憧れ、自身もそういう人たちに連なりたいと強く願っていたのだと思う。
ひょっとしたら坂本さんには、自身がとてつもない「凡人」に見えていたのかもしれない。ピーター・シェーファーが「アマデウス」で描いたサリエリのように。しかし、新しい才能を発見した瞬間に、坂本さんの「憧れ」のバロメーターは、嫉妬などといった負の感情をはるかに超え、激しく振れ始める。その人のつくる、すべてのものを知りたい。その人に会いたい。そうした関心の乱反射が、あらゆる垣根を無意味なものにする。
かように坂本さんが憧れた人の筆頭格に、バッハがいる。幼いころ、ピアノを弾くとき、なぜ右手が旋律ばっかりで、左手が伴奏ばっかりなのかという疑問を持った。自身が左利きだったせいもあるだろうが、既存のシステムに簡単に従属しない性分だけは、生来のものだったと思われる。
バッハに出会い、驚いたという。両方の指のいずれもが旋律を担い、ときに1本の旋律を受け渡しながら奏で、それが結果としておのずとハーモニーを築き上げている。右手と左手、旋律とハーモニー、そうした既存の役割分担から解き放たれた音楽があると知ったとき、坂本少年の無意識に、初めて「自由」というものの本質が刻まれたのだろう。
坂本さんのアイデンティティの形成に深くかかわったひとりとして、ドビュッシーの名も挙げたい。色彩感を喚起するハーモニーの革命を起こしたドビュッシーは、1889年のパリ万博で、インドネシアのガムラン音楽に触れている。西洋のシステムによって調律されていない鍵盤打楽器や銅鑼の合奏が生む、響きのうねり。余韻の伽藍。坂本さんの「戦場のメリークリスマス」のテーマ曲にも、このガムランの音色を遠景に聴くことができる。
もうひとり。東京藝大作曲科時代の坂本さんが強烈に憧れたのが、民俗音楽学者の小泉文夫だった。当時のクラシック界の権威的な空気が嫌でたまらなかったと、のちに坂本さんは告白している。そんな藝大に、自然の音を採取しようとジャングルの奥地に足を踏み入れ、カエルの声を録音しようと何度も池に潜り、みなに眉をひそめられている「変わり者」がいた。音楽へと洗練される以前の「音」を、虫取り網を掲げた少年さながらに夢中で追いかける姿が、「ぼくらが知っている音楽なんて、ほんの一部にすぎない」というのちの達観を導くことになる。
なぜこの人たちは、こんな人生を歩めるのだろう。自分の知らない世界を見せてくれる人たちに、坂本さんはひたすら憧れ、その背中を無心に、そして全力で追った。
そんな風に坂本さんが憧れてきた人たちが、その後、坂本さん自身の人生をどんな風に豊かにしたのか。この本はそのプロセスの一端を垣間見る、坂本さん自身の手による一種のドキュメンタリーといっていい。
八大山人を通じてナム・ジュン・パイクを想い、中上健次にジャズの本質を見る。論理的には何の「つながり」もない人たちの生のいとなみに、坂本さんの鋭敏な感性は何らかの「つらなり」を見つける。そして、その「つらなり」に、何らかの真実へのヒントを模索する。胸を躍らせながら新種の昆虫を探す、夏休みの少年のように。風通しの良い文体を得て、坂本さんの様々な「発見」が、嬉しそうにはじけながら連なってゆく。
誰にも束縛されず、所有もされない。真の「自由」が宿る場所に、自身が憧れた多くの人たちとともにいま、坂本さん自身の魂も在る。
これからは坂本さんの音楽や文章に導かれ、芸術のユートピアに集ったあらゆる人々の「童心」に、わたしたちが新たに出会っていく番である。
最後に。坂本さんは、そうした「出会い」の場所をこの世界に残したいと考えていた。
この秋、東京の下町の一角にオープンした「坂本図書」には、坂本さんの蔵書の一部がゆったりと配置されている。重い鉄のドアを開き、中に入ってみると、いろんな本の匂いが押し寄せてくる。新しい本、古い本、小説、画集、哲学本。そうか、本にもそれぞれの「人格」ってものがあるんだな、などと、妙な風に感心してしまう。やあ、いらっしゃい。そんな風に、はにかみながら坂本さんが、初対面の私をも自らのプライベートな心の中に招き入れてくれているようで、「いいのかな?」と最初の一歩を躊躇してしまう。それくらい、そこは坂本さんの「実在」にあふれている。
10人も入ればいっぱいになってしまうので、当面は1人2時間の交代制にするという。2時間といえば、まさにライブの尺である。この2時間、わたしたちはワインと珈琲の香りに導かれ、坂本さんの脳内を自由に、能動的に回廊することができる。運がよければ、坂本さんの色とりどりの書き込みが、突然即興のセッションを求めてくるかもしれない。
坂本さんとともに、世界の循環の一部となった私たちは、もう誰ひとり「他人」ではない。
坂本さんの希求した平和は、たぶん、そうしたすべての貴い「個」の連なりの先にしかないのだと、この場所で、あらためて思う。
吉田純子(よしだ・じゅんこ)
朝日新聞編集委員。和歌山県生まれ。1993年東京芸術大学音楽学部楽理科卒業、96年同大学院音楽研究科(西洋音楽史)修了。伴奏ピアニスト、キーボード奏者、音楽ライターを経て97年朝日新聞社入社。仙台支局、整理部、広告局広告第4部(金融担当)などを経て現職。コラム「日曜に想う」を執筆中。